アサメシヤ

庭師の目線で見る世界

便利な世の中になればなる程災害のダメージが大きい

地震や大雨で電気、水道、ガスなどのライフラインが止まったらどうしますか?

大きな災害になればライフラインだけでなく運送や通信などのインフラもストップします。

その時のダメージは深刻で災害そのものを免れても過酷な生活を強いられることになります。

まず電気が止まったとします。するとすべての家電は使えなくなります。携帯もバッテリーが切れてしまえば充電することができません。

昔の電話なら電話線の電気だけで動きますが、今の電話機では動きません。

水道をポンプでくみ上げている集合住宅などでは水も使えなくなり、ガスが生きていても電気で制御している機器は使用できません。

電気がないだけで普通の生活は成り立たなくなります。

運送や情報まで遮断されてしまえば、食料が届かなくなり、どこに行けば食料があるのか情報を得られなくなります。

便利な世の中というのは案外脆いのかもしれません。

では便利ではない生活はどうでしょうか?

僕の見てきたタイの山岳民族の生活を例とすると、食料は畑で作ります。もしくは歩いて行ける近所から買ってきます。また川で魚を採ったり、豚や鶏を飼っていたりで食べ物のほとんどは近所で生産されたものです。

この時点で食料の運送が止まることや保存に関しての心配はなくなります。

水道は雨水を利用します。雨水は生水を飲むよりはるかに安全ですし、おいしいです。また井戸があれば断水の心配はありません。

ガスは薪火で代用できますし、木は石油などの化石燃料と違いどこにでもあるので燃料切れもありません。

そのような生活をしていると生活のサイクルが近所で完結しているので車で移動する必要もありませんし、情報が無くても困りません。

建物の強度は増して倒壊の危険や河川の氾濫などは少なくなりましたが、災害後の生活は便利ではないといわれる生活の方が全くいつもと変わらない生活が送れるのです。

便利になる代わりにそれが災害で機能しなくなった時、人力ではどうすることもできないものが今の世の中には溢れています。

いざというときのために生きていくために必要なものがどこから来ているのか意識しなくてはなりません。

今食べているものはどこから来ているのか?例えば海外から運ばれてくるものならその途中のどこかが途切れればその食料は届かなくなります。

しかし、徒歩圏内で食料が生産、調達が可能ならインフラが止まっても食料不足にはなりません。

同じように水源の確保や薪などの燃料が確保できるかで災害後の生死を分けることになるでしょう。

とはいえ今の生活でいきなり自給自足をすることはできないと思います。

僕たちが意識するべきことは近くで、そして自力で手に入れられるものなのかを考えることです。

例えば食べ物を買うときも産地の近いものを購入します。近いということは車が使えない状況になっても食料が手に入るということです。普段から地域の物を購入していれば地域の産物の活性化になります。

また、エネルギーに関しても地産地消が出来ます。エネルギーで代表的なものは電気、ガス、石油です。電気のほとんどは石油を燃やして作られています。ガスも石油を採掘する際に発生するもので、石油由来のエネルギーが多くを占めます。

石油は地下から採掘し、中東などからタンカーで運ばれてきます。それから日本の港からタンクローリーなどで各地域に運ばれてくるわけですが、災害だけでなく、国際情勢や経済の影響も受けやすく不安定なエネルギーと言えます。

近くで得られるエネルギーで代表的なものは薪燃料です。煮炊きやお湯を沸かす、暖をとることが出来ます。災害時では木質廃材などを燃やしてエネルギーを得ることが出来ます。

また忘れてならないのが人力の動力です。手回し発電機などは貴重な電気を生み出すことができますし、洗濯機を使わず衣類を洗濯することも人のエネルギーを利用したものです。

これらの近くで得られるエネルギーに普段から目を向けていれば例え電気や石油の供給がストップしても生活が成り立たなくなることはないでしょう。

便利な世の中になれば時間が節約できて生活の質は向上しますが、それが当たり前になってしまうといざというとき生活が成り立たなくなってしまいます。そうならないために人力で何とかなる範囲ということを理解しておくべきでしょう。