タイの貧困への支援をしている団体を見ている中で思ったことがあります。
それは、貧困とは思い込みなんじゃないかということです。
しかし、貧困が存在しないというわけではありません。今日食べるものにも困っていたり、着るものも買えないのは貧困と言えるでしょう。
食べる物や着るものには困っていない。でも住んでいるところは竹や木でできた家で、薪を使って煮炊きしている。家電製品は照明があるだけ。
そんな状態は貧困でしょうか?
貧困であるとも言えますが、その貧困は経済の発展などの周りの環境の変化により起こります。
彼らの生活は変わっていないのに、発展した地域に比べて貧困に見えるため、経済格差が貧困を生みます。
都会的な生活が豊かさの象徴となれば、そうでない生活をしていれば貧困といわれてしまうのです。
その考え方を作ったのは初めは物を売る人ではないでしょうか。例えばテレビを売るメーカーがテレビを持つことは情報を得て豊かな生活を送るために必要なことである。
といえばテレビを持っている人が豊かでテレビを持っていない人は貧しいという印象を与えます。
そこで彼ら自身もテレビが買えないので貧困だと思うようになります。
更に支援をするという人が現れれば、彼らは自分たちは支援される立場であると考え、支援者は自分は支援をする立場であると考えます。
その考え方がより貧困に拍車をかけているのだと思います。
これから世界の経済は発展していきます。そうなれば今まで貧困ではなかった人たちも貧困になってしまうのではないでしょうか。
貧困とは絶対的なものではなく人々の価値基準によって変動するものなのです。
タイの山岳民族もコンクリートブロックの家に住む人が増えてきましたが、知り合いの高床式の竹の家に住むカレン族の人は風通しがいい竹の家の方がいいと言っていました。
食べカスや飲み残しのお茶は床の隙間からすぐに捨てられ、鶏が食べてくれるから便利だそうです。
例え世間的には貧困とされていても自分でその生活を選んでいる人もいるということを忘れてはいけません。
その生活がその人にとっての一番快適な生活かも知れません。
最大の支援は貧困を貧困として見ないことです。
今は山岳民族の暮らしを体験するツアーやホームステイというものがあります。
ということは貧困と呼んでいたそれは地域性とか個性のようなものに近いのではないでしょうか。
彼ら自身にも自分たちの生活が決して貧しいものではなく、価値のあるものだという誇りをもってほしいです。